横のものを縦にするだけ

 神さまに会いに行く。  楽しい旅でも明るい道行きでもない。  それでも暗い顔をしてはならないのだ、と馬に揺られながらスコシは思う。 ●  出発の前夜、ひとりで訪れた長はなかなか口を開かなかった。  せまい部屋のなか、長から漂い出る緊張した気配は、じっとりと肌にはりつくように粘っていた。スコシの方から用向きを問おうとすると、長があからさまに目を背けているので言葉にしにくい。  なにか望みはないかとようやく尋ねた長は、スコシの方を最期まで見ようとしなかった。なんでもいうといい。長の声は疲れていた。そんな老爺を―ぐったり濡れた犬のようにみじめな老爺を見るのははじめてであり、衝撃だった。  ―見送りはしないでください。  長はうん、とこたえた。駄々をこねる幼な子が放り投げるみたいな口ぶりに、スコシは我が耳を疑う。村長らしくもない、という気持ちが胸を占め、気まずさはスコシの舌をこごらせる。  もう一度うん、といって、長はスコシの頭をなでた。  スコシはアラリ・ノ女王に謁見するため、翌朝村を出た。  アラリ・ノは冥府の女王だ。死の女神であり、沈黙の隣人である。  西にある広大な塩の湖の底、白い居城で永遠を生きている。目が合うだけで、人間など一瞬で塵になると―そう聞く。  湖に赴き、居城を訪ね、スコシは女王に謁見するのだ。  アラリ・ノにはアラリ・ノのつとめがある。  病魔の種まきならびに、その豊かな実りのための領土拡大だ──御手を止めてくださるよう、スコシは懇願するのである。  まだ白んでもいない空の下、村を後にした。  空気が冷たかった。  空は暗いというより、重く見える。  胸のあたりに、冷たいとげがたくさんついた、かたいなにかがあった。意識しないようつとめていたが、ふいにそれがのど元にせり上がって来そうな感覚を覚える。スコシはうつむく。冷たいそれを、意識から追い出そうと目を閉じる。飲み下したと思うと、今度は憂鬱になって来た。憂鬱さと故郷のながめを天秤にかけて、こたえはたやすく出たのに、スコシはうつむいたまま顔を上げられない。  陽がのぼるにつれて、指先が暖まった。  徐々に身体がぬくくなったスコシは、全身にからみついていた、冷たくほそい気鬱の糸を切ろうと息を吐く。  スコシは故郷の景色を見ようと顔を上げた。  右手の小道の先、立派なザクロの木がある。おさないころのぼって落ちたのを思い出して、何故だか気持ちが軽くなった。左手の道はなかばで消えるが、灌木としげみをかき分けると、群生する桑の木がある。実が甘くおいしいとのことだが、近くに昔墓地があったせいで誰も取りに行かない。恋人たちの逢い引きの場所になっていて、スコシに縁のない場所であった。  ゆるやかな丘を進むうちに、夜が明けて行く。ふり返ったところで、村は木立に隠れてわからなくなっていた。  この先の道は、スコシも知らない行程になる。  道のわきの大きな石、放置された丸太、不意打ちのようにくぼみのある──よく子供の転ぶ草原への入り口。通り行くなじみ深い風景にまつわる思い出が、次々と脳裏をよぎった。  引き出しからていねいに思い出を取り出し、スコシはそこに置いていく。  どこもかしこも知った場所だ。孤を描きはじめた道を進むと、村からでは鋭角だった遠い山脈、その稜線のかたちが変わった。変哲もないが、知らない景色が現れる。スコシは後ろ足で立つ犬を連想した。  状況が違っていたら、きっと楽しい旅だろう。  アラリ・ノのもとに、湖にたどり着いたら、懇願のためにスコシは生きたまま沈む。  誰も会ったことのない、書物や口伝に息づく女王の姿をスコシは思い描く。  どこまでも広がる黒衣と漆黒の髪、黒曜石の瞳、爪までもが黒く、女王は決して笑わないという。  それはスコシに祖母を思い出させた。  遠く山間の村に嫁いだ父方の祖母は、山火事ですべてを失った。残ったのは腹にいた息子のみ。家財も、夫も焼けた。着の身着のまま、浮浪しながら故郷に戻った祖母の容貌は、別人のように様変わりしていたという。旧知の友人でさえ、それが祖母であると一瞬わからなかったそうだ。  火事のことは遠方ながら、村でもとっくに知られていた。山がひとつ燃え炭となった火事は、空を焦がした。夜でも広い範囲をこんこんと赤く照らし、炎が猛る様子を見せつけていたそうだ。そこから逃げ延び、生き残って腹の子と故郷にたどり着いた祖母──誰もが生きていようとは思わなかった。だからひどく驚いた。  いろんなものが燃えたよ──孫のスコシを前につぶやいた祖母の声は、かすかにふるえていた。  祖母のなかではまだ山の炎は燃え続けているのだと、当時まだおさないながらに、スコシは思ったものだった。  身のうちに負った傷を癒そうとする代価か、祖母は笑うことを失った。  ひとり生き残った代償としてか、祖母は笑わなくなったのだ。  誰にも責めようがない。そのように祖母は欠けてしまった。  やがて月が満ち、祖母は赤子を産み落とした。  スコシの父である。  周囲にいわせると、手のかからない子供だったそうだ。すくすく育ち、穏やかな少年は温厚な青年になり、そのころには変わりものと呼ばれていた。怒らないのだ。盗まれようが罵られようが、疑われようが怒らない。顔を歪めもしない。ただ微笑む。こまったように笑う。言葉は通じるが、怒りに関してはまったく通じなかった。  欠けた、笑わない女の息子はやはり欠けていて──怒りを持っていない。  そう結論づけられた。  村の誰もがいやがる役目を、父は押しつけられても受け入れた──受け入れざるを得なかったといってもいい。ときには断ろうとすることもあったようだ。しかし周囲は怒らない父を侮っていた。貧弱な身体つきではなかったが、格下と思えば無体なことも平気でする。怒ることがないように、父が圧力に逆らわなくなるのにそう時間はかからなかったそうだ。逆境というほど苦しくはないが、報いのすくない環境にも父は押し黙っていたという。  そんな彼のもとに嫁いだのは、大病の末に右手の感覚を失った女だった。  器量は悪くないのに、彼女は右手のせいで縁談がそれまでまとまらなかった。  右手の不都合をおぎなうために、次第に彼女の気は強くなってしまった。それは目元によくあらわれている。  ふたりの結婚に、好奇の目が集まった。聞こえよがしな暴言も聞こえた。悪し様にいうものがいて──いわれない悪意によって無理にでも罵ろうという村人に、父はやはり怒らなかった。ふたりを聞こえよがしに嘲笑する声は、父の気弱にも取れる態度に大きくなった。悪意のあるものは、どうしてかそれを誇示する。結婚後日々届く声に、父でもため息を落としたという。  しかしそれまでとは違い、彼には新妻がいた。  彼女は怒った──激怒したのである。  うらわかき新妻はある夜、ひとり出かけた。右手に大きな石をにぎり、ひもでくくりつけて、酒場に集まった酔漢たちの前に新妻は立った。酔漢たちは、若い夫婦をそしるのを肴にしていた。軒先を酒場として開放しているその家は、夜ともなれば荒んだ雰囲気で近寄りがたい一帯である──いまも昔も。  母の目指す相手は酔い、そもそも無頼に迷いがない。  だが母はひるまなかった。雷鳴のような声で母は酔漢に怒鳴った。 「あたしの手は石を持ってることもわからない。だから、この手が壊れるまで誰かを殴っても痛くないってことだ。誰かためしたいやつはいるか?」  やってやる、という意思表示だ。  本気だと理解した半数は、威嚇で及び腰になり目をそらした。  なかには懲りないものもいた。  本当に殴る意気地が、女なんかにあるものか──酒場に乗りこんだ母の恫喝も呑んでかかる。しかし母は微塵も迷わなかった。母は相手の尻を、遠慮なく蹴飛ばしたという。それまでに何度も悪意の牙を剥いた相手のために、母はとっておきの木靴をはいて出かけていたのだ。 「石で殴るときは、こんなもんじゃすまさないよ。それとも、あんたじゃなくて、あんたの家族にやってやろうか?」  相手がいい返そうものなら、母は容赦なく蹴り続けたという。酔漢の尻の的に、おもしろいほど蹴りは的確に入ったそうだ。  以来聞こえよがしに暴言を吐くものはいなくなった。そのとき母の腹にいたスコシは早産だった。母の怒りにあてられて、月が満ちていないのに産まれてしまった、と自分では思っている。母は苛烈で恐ろしい。だから腹から逃げ出したのだ、と。  月が満ちずに生まれたスコシは、自力で呼吸をはじめた瞬間から欠けた子供として扱われた。  欠けた血族から産まれた。そもそも月も満ちていない。  いまはわからずとも、成長すればわかるような欠けた部分が、必ずすこしはあるだろう──それでスコシと名づけられた。命名は村の祈祷師の家系のものがする。  当然のように、母は猛然と抗議したようだ。だが激怒する母のかたわらで、父はすでに赤子をスコシと呼んでいた。  父の幼年期と同様に、スコシはすくすく育った。  やはり祖母は笑わず、父は怒らず、母は周囲に軽んじられまい、と意固地なほど力みながら生活していた。  スコシは背がのび力がつき、髪や爪がのびるのがひとよりもはやかった。笑うし怒るし、母の怒りに怯える。不足があるように見えなかっただろう。  だが、でも、では、ならば。  足りぬはずの子だ、きっと先借りしているものがある──村長がいいがかりでしかないことを口にしたのは、スコシが十歳のときだ。村で頻繁に行われる即興の歌会の席、だべりの席でのことだった。同席した祈祷師は我が意、とうなずいたという。  耳に入ると母は当然激昂した。  妙な名前をつけただけでなく、今度は我が子にいわれない悪口を公然と吐く。村長と祈祷師をとっちめてやる、と息巻くのを必死にスコシが止める間に、村長の言葉は村に蔓延した。  足りぬはずが、先借りするなんて──スコシを不埒もののように見る顔が、ちらほら現れた。  スコシは戸惑った。自分が欠けているというなら、早産だったからというなら、おなじ月齢で生を受けた友人はどうなのだ。村長の従兄弟の娘もそうだった。実際めずらしくも異常でもない話である。  異議を唱えたかったが、自分自身の弁護に動こうとした矢先祖母が亡くなった。  祖母の死に顔は、生前のどんなときよりも安らいでいた。  いまだ火事で焼けたかの山は、往年の姿を取り戻していない。  祖母のひっそりとした葬式のなか、いいがかりに対する反発心は薄れてしまった。祖母のいなくなった家はもの悲しく、寒々しい。スコシは泣くでもなく、ぽかんとして過ごし──村の流言に取り合っていられなかった。  葬式が終わったスコシの耳に──暮らす村に、遠方の村から凶報が届いた。  いわく、家畜が滅んだ──意味がわからなかった。  なにやら遠方からしらせがあったらしい、と村の面々は広場に集まっていた。もたらされた凶報の意味がつかめず、お互いの顔を見る。スコシも、両親もそうだ。  凶報は遠い村から届けられた手紙だった。たずさえた隣り村の男も事態がよくわからない、と首をかしげる。その場ではなにかの間違いではないか、疫病の類ならそうと記すはずである──一同は要領を得ない伝令に、どよめくしかなかった。  ただ家畜が滅んだ、とある手紙の意図は汲めなかった。  半年ほどし、くだんの男が供を連れて村を再訪した──家畜が滅びたとの凶報は事実だった、と。  男が連れて来たのは、凶報を発した村の青年だった。青年は憂鬱そうにしていたものの、頬がこけるでも隈があるでもなく、いたって健康そうに見える。  滅んだ、などと恐ろしい伝言の使者とも思えないほど、彼は健康そうだった。  ──うちの村は、犬猫にいたるまで死に絶えたよ。  四つ足にだけ蔓延する病が現れたのだ。原因は見当がつかないという。おなじ水を飲み、おなじ土地のものを食べていた二本足、その村の住人たちは無事だった。青年は怖いとうめいた。ばたばた生きものが死んでいく。姿が消え、鳴き声が消え、けもののにおいが消え、静かになった自分の村が怖いのだと。  スコシらの村には、警告に来たのだった。兆候が見られたら、その家畜を始末した方がいい──だが青年は兆候を知らずにいた。しかし彼の、自分たちの村のようにならないでほしい、という願いは心底のものだ。彼は警告のため生地を離れた。巡礼のように、遠方にある村々を訪れていた。  ねぎらいながらも、スコシらの村のものは、凶報の発信源である青年の近くに寄ろうとしなかった。  他人事だった。  流行り病だとするならば、ほうぼうの村を訪ねる青年の行動は軽薄である。彼自身が病の運搬人になりかねない。青年が病について言葉を重ねるに連れ、村人の目は厳しくなった。  青年が去って後、村は平穏で静かだった──だがじわりと病はほかの村に広がっていたのだ。  じきに、スコシの住む村にあっても、他人事ではなくなる。  やけに家畜が死ぬ気がする、という戸惑った声が、一昨年からあったのは事実だ。だがやけに死ぬ気がする、と怪訝に思うだけで、死に直結する病だなどと、誰も思わなかった。よそから警告の徒が訪れても直結しなかった──まさか、とまだおどけていられた家畜の死が、やっと病と強固な線でつながったころには、過半数に近い家畜が眠るように生を終えていた。  手の打ちようがない。  この先取るべき対応策は、いくら会合を重ねてみたところで、妙案どころか試案も出なかった。兆候はいまだつかめないままだ。無為に時間が過ぎる。なにをどう講じても、家畜は次々に死んでいく──力仕事を担う労働力が減る。乳からつくる食物が消える。体毛からしつらえる布や毛糸が消える、冬のそなえができなくなる。肉を口にできなくなる。市場で売り出す商品が消える。  じわりと村に広がっていた、かたちのない不安が変化した。  二本足の死に直結しない病である。だが明確な困窮、労働の増加が待っているとわかる。そしていつそれが──いつ二本足に及ぶか知れたものではない。  これ以上の病を運んでは困る、と互いが互いを敬遠し、村同士の交流も廃れた。しかしまったく情報交換がないのも、不安が募ることになる。そのため川の流れをはさんで、月に一度情報交換の場を設けたが、かんばしい話はなかった。  ただ四つ足が死んでいく、静かに、穏やかに死んでいく。苦しんだ様子はなく、気づくと冷たくなっているのだ。  すでに病は運ばれ届くものではなく、そこかしこにひそんでいるものだった。  遠くの村から、アラリ・ノに謁見した方がよいのでは、との提案が出たのは昨年の初春。スコシの住まう村に案が届いたのは、夏の終わりだった。  年明けには、村を取り巻く風向きが誰の目にも明らかになっていた。  提案は数々の村を介して届く。スコシらの村に届いたときには、謁見の立案から、密使を立てるべきと強い要請に変化していた。  すでに周辺の村々にくらべ、スコシの住む村は富裕層の位置づけにあった。  家畜はそれすなわち財産だ。もっとも豊かなものが、貧しいものたちのために動くのは当然である。しかし豊かだといわれても、以前より家畜の数は減っている。そしてこれ以上減るのだけは避けたい。  アラリ・ノは夜の女王。闇に君臨し、四つ足の動物だけを居城に召し抱える。アラリ・ノは真正直な女神だ。嘘を嫌う。だから言葉を話す二本足を嫌うのだという。  スコシや友人たちは、おとなたちの理論に首をかしげた。  二本足──人間が謁見しては、かえって機嫌を損ねることになるのではないのか。  だがおとなたちが川をはさむのをやめ、直接ひたいをつき合わせての会談をするのだから、なにか策があるのだろうと──まだどこか楽観的に見ていた。  根拠もなく、きっと解決して、家畜が死ぬことはなくなるのだと。  策が贄を捧げることだと、嫌う二本足の生命を捧げることだとわかるのに時間はかからなかった。  春と呼ぶには暖かくなって来ていたある夜、スコシは自分に謁見の使者として白羽の矢が立ったのを知った。

@t2akii